300歳まで生きてもね~(不老水)

不老水
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 福岡市 香椎宮の傍らにある名水

 仲哀天皇神功皇后橿日(かしひ)のを造営された時、大臣の武内宿禰は宮の北側数百メートル先に自身の屋敷を建て、井戸を掘ったのが「不老水」の始まり。
 御飯の水、老の水とも言われ、仲哀天皇にこの水を献上された武内宿禰が自らも炊飯造酒に用い、300歳の長寿を保ったという伝説がある。

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 ※ 右が天皇・皇后で水を献上しているのが武内宿禰

 鳥居の先にがあり、が付いている。
こちらのカギは10時解錠され、以降、何人もの方が採水に訪れるそうだ。
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 ※ 間違って施錠されたもんならその後の人は水を汲めない…

 扉を開けるとをした井戸が出現
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蓋を開けて美味しい水をいただく。
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 長生きはしたいが、300歳までも生きたくない(ほどほどで…)

軍師官兵衛の集大成 福岡城

福岡城(別名舞鶴城

 関ヶ原で東軍についた黒田長政とその父・孝高(如水)が、1601年から古代の鴻臚館があった福崎の地に築城を開始し1607年完成させたお城。
 この城の内郭は天守台、本丸、二ノ丸、三ノ丸の4層に分かれ、にあっては47あったという。
 天守閣の有無については、今も議論のところであるが、内郭部分だけで41万㎡の広大なお城である。

 家老たちの屋敷群があった三の丸は現在、駐車場になっていて、そこから二の丸に向かう
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 松ノ木坂門跡(二の丸と三の丸を繋ぐ門)
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 ※二の丸の石垣が左側に見える 

二の丸跡
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扇坂御門跡(二の丸と東二の丸を繋ぐ門)
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東二の丸跡
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 ※ 今はラグビー場になっていが、二の丸御殿があったそうだ。

 東二の丸を見降ろすように本丸の御祈念櫓が聳え立つ
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二の丸の方に戻って、今度は表御門を通過し本丸に向かうことに
表御門跡
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 登り切りまっすぐ歩くと御祈念櫓の反対側が見えてきた
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 ※ 鬼門となる東北方向の角に鬼門封じのため建立されらしい。

表御門跡御祈念櫓
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 ※ 表御門にも櫓があったとか… 

本丸跡
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本丸の井戸
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本丸北西側には御時櫓があったとされる

御時櫓跡
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本丸と二の丸を繋ぐ裏御門跡を通り、天守台へと進む
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 ※ 右側が二の丸、正面に天守台の石垣が見える。

 天守台は大きく、大天守台中天守台小天守台の揃い踏みだ。

天守台へと登っていく通路右側には鉄砲櫓があったらしい。
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 登ってからり撮影したもの。
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 ※ 左が鉄砲櫓跡

 鉄砲櫓を過ぎると枡形になって、道具櫓門があったらしい。
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 南西の隅には御武具櫓跡があり、
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 振り返ると、大天守台が見える。
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 ※ 結構な大きさだ。

 東側に張り出した小天守台
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 ココから本丸りる急な石段があるが名前は分らない。
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 (「本丸」)からの写真
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 ※ 左が小天守台、右が中天守台

中天守台
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 ※ 奥に見えるのが大天守台

大天守に向かう埋門跡
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反対側
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天守への入口
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天守地下となる部分
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 大天守台から見る中天守台小天守台
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 ※ さらに奥に見えるのが東二の丸跡だ

 大天守から本丸に繋がる鉄御門跡が見える。
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 (本丸側)からの写真。
天守への入口となる鉄御門跡
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 ※ また、雨が…

 本丸を東方向に歩き、南東角月見櫓跡がありそこから御祈念櫓が対角に見える。
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 ※ 文だけでは位置関係が分かりにくいが、この下が東二の丸になる。

 この時には自分がどの位置にいるか判らなくなっていたが、案内看板を頼りに南の丸に向かうことにした。
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 ※ 南の丸への入口

 入ると右側(西側)に多聞櫓が見えた。
 多門櫓は現存重要文化財
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 ※ 多門櫓の右側が北隅櫓で左が南隅櫓

南隅櫓
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  ※ チョットぼろぼろ…

北隅櫓
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 南の丸を出て外周を周ることにした。

 東側から時計回りに歩いたが、水ノ手御門跡を通って南側に進む
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 ※ 右側には生捕櫓と言う恐ろしい名の櫓があったらしい。

 南側に来ると、当たり前だが南隅櫓が見えた。
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 ※ 外側はまだ綺麗…

 西側の面にそって歩く
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 ※ 多門櫓…結構長い

北隅櫓
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 ※ 電柱が残念だが、石垣がスバラシイ

桐木坂門跡を通って再び二の丸へ
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 ※ 案内看板には「胴木坂門」と書いていたがドッチだろう? 

 更に進んで最初に通った扇坂御門を通過し東二ノ丸、さらに進んで三ノ丸へと続く東御門跡に至る。
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 三ノ丸を東に移動すると、この城が建てられる前にあった鴻臚館跡が史跡として残されていた。
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 その傍らに福岡城歴史館なるものがヒッソリと佇んでおり、
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 ここで名城スタンプをゲットするのであるが、博物館で見ることのできなかった「へし切(当然レプリカ)」が展示されていた。
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 ※ 信長から褒美として与えられた名刀 本物は国宝だ。

 ココから北に進んで、外堀に向かう。
 
 現在風に整備されているが、この「上の橋(カミノハシ)」が外堀に架かった橋だ
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 外堀越に見るとこう。
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 上の橋御門跡に続いている。
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 ※ 奥に見える建物は裁判所だ。

 そこから西に進むと外堀に架かるもう一つの橋である「下の橋(シモノハシ)」に至る。
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 この橋を渡れば、下の橋大手門潮見櫓に至る。
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 下の橋大手門と潮見櫓の写真を撮ろうと思ったら、訳のわからないスタンプポイントがあったが何故、こんなところにあるのか、まったく意味が分からない。「邪魔だ!」
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下の橋大手門
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潮見櫓下の橋大手門(内側)
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潮見櫓
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 ※ 内側

下の橋大手門を過ぎると三の丸に入るのであるが、隠居した黒田孝高(如水)はここに住んでいたらしい。
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 福岡城、それは築城名人でもあった、名軍師「官兵衛」とその息子長政が手塩にかけた九州最大お城である。

防人たちが守った朝鮮式山城(大野城)

大野城址
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 百済の復興を図った白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した大和朝廷(=大化の改新の主人公である中大兄皇子の命で)が倭(日本…要は太宰府)の防衛のため、標高410メートルの四王寺山に亡命百済人の指導によって造られた朝鮮式山城である。

土塁石垣
 尾根にそって土塁が造られ、南北に二重に総延長㎞におよび、谷部には石垣を築いている構造で数多く発見されているが、最大規模のものは次のとおり。

百間石垣
 基底部幅9m、高さ約8mの石塁が百間(180m)ほど続く壮観な眺め
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尾花地区土塁
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 この尾花地区には10棟の建物跡が残っていて、万が一の場合太宰府の機能をすことも考えられていたらしい。
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建物礎石群八ツ並地区
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 ※ 14棟分が確認され、全て高床式の倉庫だとか

太宰府口城門
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※ 9か所ある城門のうち規模が一番大きく正門ではと考えられている。

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 ※ 城門の礎石
 
 城域は東西1.5㎞・南北3㎞と壮大な規模であるが、時間の関係で全ては回れなかったことが残念だ。

白川の棚田(福岡県朝倉市甘水)

白川の棚田

 道路(県道66号線)に面した緩やかな傾斜地に作られている棚田。
 案内がないので、事前調べなしでは辿り着けていたか不安になるくらいさな棚田だ。
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 残念なことに、道路に面したところを中心に耕作放棄転作が進んでいて、どうしても見映えがく思えてしまう。

石積の棚田(福岡県星野村)

 福岡県八女郡星野村にある棚田
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  この棚田は、長い年月を費やし、山をクワで切り拓き、出てきた山石を一つ一つみ上げて造られたものだ。

 急斜面に造られた棚田は当たり前だが狭く長くなるのが特徴で、この棚田はいところはmもなく、さは300m近い場所もあるそうだ。
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 山の斜面に帯状に連なり、すそ野から山頂まで続く。
 岩をり、土堤をき、石を組みながら長い用水路をき、開墾した山田に命がけで水をった…携わった先人の苦労が伝わる景色だ。
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 この「広内・上原地区の棚田」は約12.6haの広さに137段、425枚の棚田が、標高差約230mの斜面に広がっている。

葛籠(つづら)棚田(福岡県 浮羽町)

葛籠(つづら)棚田
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 山間部の深いの中を埋め尽くすように田んぼが作られている。

この棚田の中にはが通れるがり、すぐに一番高いところまで登って行くことができる。
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 ※ 棚田のテッペン

 3月だったので、道中、段々を利用してお雛さんられていた。
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 棚田の全景を見渡せる側面にも道路あり、そこからの景色も素晴らしい。
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清水湧水(きよみずゆうすい)  福岡県

 筑後川の南を東西に伸びる耳納山地。そのふもとにある苔寺こと清水寺山門をくぐると、左手清水湧水が湧き出ている。
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 この「清水湧水」は、建長元年(1249年)、常陸国(現在の茨城県)からこの地を訪れた:日用比丘(ひようひこ)という僧が発見したと言われています。その清澄さから、清水寺を開いたとされ、昔から霊水として崇められ、時には薬水として、また地域住民の飲料水や生活用水農業用水としても利用されてきたそうな。
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 ※ ココに書かれているマンマ

 うきは市浮羽町は飲料水のすべてを地下水でまかなうという、全国でも珍しい町だそうで、こちらの湧水は地元住民百人でつくられた「清水湧水保存会」によって大切に守られているとのことだ。

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 ※ お寺だけに仏さんにも守られている


 ちなみに鹿児島県にも「清水の湧水(きよみずのゆうすい)」って言うのがあって、「の」のありなしだけの違いで紛らわしい・・・

近代城郭のキゲンとなったキゲン前の環濠集落

いきなりのダジャレで始まってしまったが、

吉野ヶ里

 弥生時代前期から後期にかけて存在した環濠集落

 紀元前一世紀ごろに富をめぐるが起こり外敵にえて集落の周囲に二重三重のを巡らせた城の原型となる集落が誕生し、後期になると国内最大規模の環濠集落に発展したと考えられている。

 現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園になっている。

 実際その規模はとてつもなく大きく、全てを見て回るには一日では足りない。

 駐車場から歴史公園センター(東口)を通って
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 ※ レストランなんかもあり、結構、近代的な建物だ

 歴史公園に入るとすぐに、遠くにそれらしき大がかりな建物が目に入る。
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 ※ 民家越しであるが、かなり大きそう… テンションup

 歩き続けると、木で作られたが見えてきた、この門をくぐり集落に入るのである。
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 入るとすぐに目に着いたのは、柵の内側に設けられている
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 ※ 雨でレンズが…

 を削ってバリケードにして敵の侵入ぐ造りであった。
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 ※ 逆茂木(さかもぎ)と言うらしい。

 更に歩くと程なく、物見櫓が見えてくる。
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 これが吉野ヶ里の2つの中心区域のうち、南側にあり「南内郭」と呼ばれる周りのムラムラを治めていた支配者層が住んでいた場所と考えられている場所である。

櫓門
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 櫓門から見た南内郭
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 物見櫓4棟と煮炊き屋、王たちの居住空間も含めて20棟の建物復元されている。
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 櫓門をくぐって中に入ってもがあり、何重にも防御の備えがなされている。
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 物見櫓から見た南内郭
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王の家
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 ※ 後ろに見るのが「王の妻の家」とのことで、さっそくの別居状態か?

王の家の中
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 南内郭を後にして、次に向かったのが北内郭であるが、途中に「中のムラ」と呼ばれる地域があり、高床式倉庫が立ち並んでいたが、
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 ここでは、祀り、政治、儀式などの道具を作っていたと言われており、「織物の倉
 「供物倉」、「稲穂の倉」、「道具の倉」の4棟があった。

  そして北内郭に入る
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 北内郭は集落の中でも最も重要で神聖な場所であり、当時、祀りごとが行われていた場所と考えられており、巨大な祭殿9棟の建物が復元されている。

東祭殿
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 ※ 季節ごとのまつりの儀式が行われた施設とか

高床住居
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 ※ 最高司祭者の住まいと考えられているそうな

物見櫓
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 ※ 南内郭のものとは造りが違う。

竪穴住居
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 ※ 最高司祭者の世話に当たる従者の住居とか

 物見櫓から見た北内郭
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で、天守閣じゃなくて、主祭殿
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 ※ 一部工事中なり。

 内部では中央に王が座り、左側のムラ人と右側の支配層が向かい合って、田植えや稲刈りの時期などを決める儀式を行っている様子や
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 最高司祭者(巫女)が、祖霊からお告げを授かるために蔓を頭や身体に巻き、手に小笹を持って、琴の音に合わせて神がかりしようとしている様子が展示され、が展示
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 戦いや狩りの祈りなど、重要な事柄は全てここ主祭殿で決定されたと考えられている。

斎堂
 斎堂は、主祭殿と東際殿との間に位置することから、祭りの時に身を清めたり、祭りの儀式に使う道具などが置かれていた施設と推定されている。
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 北内郭を後にし、さらに北に進むと北墳丘墓といって歴代の埋葬された特別な墓があるが、その道中に甕棺墓列といって弥生時代中期の一般の人たちが埋葬された甕棺(北部九州にのみ見られる言わば棺桶らしい)が多数並んで列をなした場所がある
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 ※ 奥に見えるモッコリが王の墓
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 そして歴代の王の祖霊へお供えを捧げる建物である祀堂(しどう)
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 祀堂の奥に変てこりんな木の柱が現れるが、この柱には北墳丘墓を守る祖先の霊が宿ると考えられ「祖霊の宿る柱」と呼ばれているらしい。
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 もっこりした部分が墳丘墓でそこにお参りする専用の道が造られていて「墓道」と呼ばれている。
 この墓道は外環壕の外から延びていて、吉野ヶ里集落だけではなく、周辺集落を含めた全体の人々がお参りできるようになっていたそうだ。

 さて、いよいよ紀元前の歴代王が葬られていた場所への御案内であるが、入口に回り込む
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 ※ 近代的でギャップがあった…

 内部に入ると、遺構甕棺本物が展示され、結構重厚な雰囲気であった。
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 ※ 甕棺は14基出土したそうだ。

 ちなみにこんな風に埋葬されていたんだとか・・・
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 この時代の人たちは祖先の霊を本当に大切にしていたんだと感じさせられる場所であった。

 歴史公園はまだ広く、見ていない部分も多くあったが、雨がきつくなってきたので引き返すことにした。

 また、ゆっくり訪れたいと思う。

完成! いえいえマダマダ未完成…

  ウッドデッキの壁には安物の野地板千鳥にしてってあったのだけど、塗装しようとしたら、木がザラザラしていて全く塗料が伸びず、とっても手間がかかることに気がついた。
 このままではキシラデコールがいくらあっても足りない。
 何のために野地板で節約したのか分らないので、焼杉の様にバーナーでって仕上げしてみることにした。
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 最初は表面だけにしようと思ったのだけど、ヤッパリ見た目が変なので
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 気温35度の猛暑の中、しながら作業に没頭すること2時間で全ての野地板を仕上げることができた。
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 これでとりあえずウッドデッキ完成なのだが、うちの奥さんはまだ不満らしい。

 「洗濯物を干したいのに、これだと近所から丸見えで下着が干せない。」ンだと…

 「ババアの域に片足突っ込んどるくせに、乙女みたいなこと言うな!」と心で思いながら「ハイ! 分かりました。」と返事をしておいた。

 は完全なサンルームにして欲しいようだが、ウッドデッキでBBQをしたい。

 どちらの思いもえられるよう、どのような細工をしようか、また無い知恵りださないといけない。

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Author:しんのじ
 「私、50にして天命を知らず。」
 彷徨い続けるオヤジのブログです。
 気長にお付き合いください。

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